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客員研究員との対談その5<前編>自分の本質と向き合い続ける

アーティスト
中村 紋子(なかむら あやこ)

1979年埼玉生まれ。写真と絵をメインに作品を制作し、国内外で発表するアーティスト。2011年、展覧会と同時に写真集『Silence』(リブロアルテ、発売=メディア・パル)を刊行。続いて2014年、写真集『潮目』(ポット出版)を刊行した。イラストレーションのシリーズは『USALYMAN』をはじめ、現在は「TOKYO IDOL GRAPHICS」シリーズをTOKYO IDOL NETにて連載中。また2015年には、地元埼玉県川越でちいさな出版レーベル『渚出版』を立ち上げ、地元の作家と作品をのこしていく活動も展開中。
Ayaco NAKAMURA

所長きむら
当研究所は、2016年7月に立ちあげ「H=ms2」をテーマに研究を続けています。
所員くどう
今回は、写真家であり絵も描かれている、中村紋子さんにお越しいただきました。中村さん、どうぞよろしくお願いします。
中村 紋子 さん
はじめまして、中村です。今日はよろしくお願いします。

自分の世界をつくる。「写真」か「絵」どちらか一つではない

きむら

僕たちが研究している「H=ms2」というのは、Happiness(幸福)、money(お金)、sense(感性) を表しています。仮に幸福の公式があるとしたら、今の世の中にお金は必要だけど、感性が豊かであれば幸せは大きいのではないか?という意味合いの公式です。

よしだ

これまで、客員研究員をお招きして「幸せの法則」はあるのか?ということを伺ってきました。今回、中村さんにお越しいただき5回目を迎えます。

くどう

中村さんは写真家でありながら、同時に絵の描き手としても活躍されています。写真か絵のどちらかではなく、その両方を垣根なく自由に行き来されているという印象を受けました。その感性の豊かさの背景にあることや、どんな思いで活動されてきたのか、お聞きできればと思っています。

中村さん

わたしは絵を描いたり、写真を撮ったりしながら暮らしています。埼玉県に生まれ育ち、幼少期に出会った美術の世界をきっかけに、絵と写真の世界へ。これまで撮りためてきた写真を、写真集として発刊したり、国内外で展覧会を行ってきました。少年ジャンプに対抗して「週刊あやこ」という小冊子を自力で発刊したり。現在は、川越に『渚出版』という一人でできる規模の出版社を立ち上げ、様々な作品を残していく活動もしています。

きむら

中村さんの作品を拝見していると、ビジネスを含めたポピュラリティー への挑戦をした表現物と、内在的なシリアスな表現物の、どちらか一つのことに 縛られない自由さを感じます。ある種、芸人のビートたけしさんと、映画監督の 北野武さんのような感覚があります。

中村さん

一つの表現だけではないことで、困惑されることもあります。一つのことだけをやっていると、わかりやすいですよね。その点で、北野武さんは、しっかりと分けているというか。わたしも本当は、明確に名前を変えるなどして分けていたら、もっと世の中的にもわかりやすく困惑されなかったかもしれません。

よしだ

でも、そうされずに活動を続けてこられたんですよね。その理由はありますか?

中村さん

わたしは、一個の世界にいろって言われるのが、すごく窮屈に感じます。単純に、そうすることが難しいんです。特に活動当初は、絵を描いているわたしを知ると「じゃあ君は写真家じゃないんだ。絵を描いているから遊びなんだね」とか「絵と写真どっちだ本気なのは」と言われることもありました。その度に「違う違うそうじゃないよ」と思っていましたね。今の社会では、理解されつつあり、わたしの思いも通じるようになってるし、居心地の良い環境になってきました。

世界が完璧すぎて、息苦しかった幼少期

きむら

幼少期に美術に出会ったとお話しされていましたけれど、どんなお子さんだったんでしょうか?

中村さん

幼少期の中で、鮮明に覚えていることがあります。わたしは小学校3年生、天気のいい日のことです。お家に帰って「ただいま」とドアを開けたら、お母さんが台所でご飯をつくっていて、お父さんがテレビで『特攻野郎Aチーム』を見て、お姉ちゃんが机で人形遊びをしていました。その日は、お日様の光がすごく綺麗に降っていて、家の絨毯はオレンジ色で、とても美しかったんです。その光景を見たとき、胸が苦しくなりました。「あぁ、これは人生の絶頂だ!」と、ショックを受けてしまって。なぜか、「これ以上は良いことが無い!」と思い、ものすごく悲しくなりました。

よしだ

直感的に、そう思ったんですか。なぜ、そう思ったんでしょう?

中村さん

完璧だったからだと思います。「もう、これ以上は無い」と思うと、すごく恐ろしくなってしまって。お母さんに「大変だ!これがいつか終わってしまうんだよ」って一生懸命に泣いて説明してもわかってくれなくて。幸福が続かないっていう事が、その時にわかったんですね。その恐さを家族に言ったのに、誰も理解してくれませんでした。子どもながらに、ものすごく恐かったので「もうだめだ」と思って、2階の階段からコロコロコローって落ちました。そしたら捻挫しただけだった。この時、"死ぬのが怖い"とはちょっと別の"壊れる恐さ"みたいなものを強烈に感じ始めて、私には別の何かが要るって思いましたね。

くどう

哲学的に考えていけば、完璧の恐さはわかるんですけど、小学校3年生の女の子が、それを直感で感じたという事実。そこに驚いてしまいます。

中村さん

完璧は、不気味な恐さでしたね。崩れていく一方というか、窮屈さです。今の世の中、皆だんだん感じ始めてるでしょう?わたしは、その様子が腐った果物に似てると思っていて。熟れた果物は、完璧でピッカピカなようでも中身を切ったら、ドロドロしている。完璧というのは、そういう感じでピッカピカしてるけど同じぐらいドロドロしてて、なぜか皆が気づかない。そういう恐さでしたね。

きむら

先ほど、当時の中村さんご自身には「別の何かが要る」とお話しされてましたよね。

中村さん

そうですね。丁度いいタイミングで、草間彌生さんの展示があって、見に行ったんです。美術館で作品を観て「ガーン!これだ!」みたいな感覚がありました。そのことがきっかけで、美術やれば良いんだ!って気づいたんです(笑)。草間彌生さんには、「ビビビッ」と運命感じました。すごい!同じ世界を見てる人がいる!って。

写真だけでも、絵だけでもない、美術を志した学生時代

きむら

それは作品を見ただけで感じたんですか?

中村さん

彼女が10代の頃に描いたお花の静物画があって、その絵に描かれたものがわたしもすごくわかる!と思って共感しました。現代美術館で展示を観た時に、めっちゃ感動して涙が出ました。その様子を見たおじさんがハンカチくれて、大丈夫?って声をかけてくれました。その後に、オノヨーコさんの展示会にも行ったんですが、電話がかかってくるという仕掛けがあって。ちょうど見ていたら電話がかかってきたんです。わ〜電話がかかってきた!って取ったら切れたの(笑)。でも、その場にいた皆がハッとしていた。たまたまだけど電話が鳴ったから、わたしは持ってるなと。こっちの世界に行くんだなと思いました。

よしだ

草間彌生さんすごいですよね。あの時代の方達は本当に。ほかに影響を受けた人は?

中村さん

わたしは、正直な人が好きです。影響を受けたのは、完全に草間彌生さんとオノヨーコさんです。オノヨーコさんはすごい。あの時代に、この言葉で、詩集の「グレープフルーツ」をつくったのはすごい才女だなぁと思っています。あとは、現代美術だけでなく古典も好きですよ。ずっと本が好きだったので。

きむら

絵は、幼少期から描きはじめてたんですよね。美大か写真の学校に行くかという分岐点はありましたか?

中村さん

一瞬ですけど、美大に行こうと思っていた時期がありました。春の講習会というものに参加して、人がたくさん集まっている状況で描いたことがなかったので驚いた記憶があります。そこで、先生から「ハエが絵の中に入っていくように描けば良いんだよ」と言われて。確かにそうだ!と思いました。そうしたら、すっごい描けるようになったんです。でも、わたしには美大は向いてないなと思いました。絵でお題がでる意味がわからなかったし、集まって描くのも無理だなと。

きむら

ふと気になったんですけど。中村さんは、同世代をどんなふうに見ていたのでしょう。

中村さん

当時は、全く友達がいませんでしたね。わたしは友達が欲しくて、街で100人デッサンしたんです。「わたしは絵が描ける」って話そうと思ったら誰も挨拶してこないの。危ない人って思われてたのかな。なぜか、わからないけど友達ができませんでした。

くどう

同じ目線に入らなかった感じですかね?

中村さん

入らなかったというより、入れないという感じでした。同世代には話が全く通じなかった。本の話とか、そういうのあんまりできなくて。例えば、幸田露伴の話をしようとか、古事記面白いよとは言いづらかったですね。高校を卒業して、大学の写真学科に入ったんですけど。写真学科だからか、写真の話だけをしてるのが理解できなかった。皆、ずっと写真のことばかり話していて。それも良いんだけど、何かが違うと感じていました。写真しか知らない、美術ではなくカメラのことしか語らないところが息苦しかったですね。

きむら

大学での出会いについても聞いてみたいです。同級生だけでなく、大人とはどうだったのかなと。

中村さん

わたしの師匠は「細江英公」という写真家で、細江先生から『中村くんはいつも一人だね』って言われて。あぁ、悲しい...!って思いましたね。「しょうがない、今日は僕と蕎麦屋に行こう」と誘われて行っていました。細江先生は写真以外のことをいっぱい話してくれたんです。「中村くん、いっぱい異性と遊んだ方が良いんだよ」とか、「蕎麦っていうのはね、中村くん」と。三島由紀夫さんの話や、美とは?など話していました。その度に「そうなんだー!」と思って。

「商品」と「作品」の違いについて悩んだ駆け出し時代

くどう

「美とは」の話、もう少し詳しく聞きたいですね。

中村さん

正直なものは美しいという話で。嘘がないものが美しい。それには、善悪とかは関係ないんですよ。この人、正直につくったなぁ、っていうのは美しい。ありのままで盛ってない。ちゃんと自分の分身としてつくれているものはみんな良いよね。そうだなーと思っていましたね。

よしだ

中村さんの作品を拝見しました。学生時代から仕事としてもイラストを描いたり写真撮影をされてきたのでしょうか?

中村さん

仕事としては、在学時からぽつぽつと絵の仕事するようになって、大学を卒業する頃には、大きな絵の仕事をすることができました。仕事で描いた絵で展覧会ができることになりました。大きなお店に自分の絵がプリントされた商品が並ぶようになったり。有名な雑誌に、自分の描いた絵がバッ!っと載っていたのも最初は嬉しかったです。「クライアント」がいて、絵を描く、ものをつくる。自分の好きなものをつくってから売り込むという、今までの制作とは全く違うかたちのもの。誰かとつくりあげていくことや、何かに応えるためにつくることをするようになって、今まで考えていなかった大きな悩みが出てきました。

きむら

仕事をするようになって、大きな悩みにも遭遇したんですね。

中村さん

それは自分がつくることや、撮ったり描いたりすることに対する想いを、相手の方と必ずしも共有できるわけではないということです。当たり前なんですが。美術としてものをつくることは「私はこうなんだ、自分をわかってほしい、私はこれでいい」という想いが根底にあります。ただ切実につくっていた作品制作とはちがって、絵をたとえ自分の作品のようにすごく心を込めて描いても、それを「使う」側も同じかといえば、決してそうではないということに気づきました。

くどう

それは、どうしてでしょうか?

中村さん

それは「商品」だからだと思います。「作品」の前に「商品」として猛烈に使われていくということです。売れていくことと理解されることにはズレがあります。更に、自分が作品を作る上で培ってきた「つくる技術」が「作品」ではなく「商品」として切り売りした場合どのくらいの価値になるのか、当時のわたしには自分で算段できなかったということです。「つくりたいという気持ちや技術」を自分できちんと対価算出できていないと、全くといって言いほど汲んでもらえない。それどころか、利用されていく場合が多々有るということを知りました。自分の中で、ものすごい闇みたいなものが蓄積されだしました。

よしだ

深く傷ついたんですね...。

中村さん

もっと「絵」として「私」が描いたものを評価してほしい、ちゃんと描いたものを相手にも大事にしてほしい。「私」が描いているのか「私という道具」が描いているのか、複製されていくこと、売られていくこと、消費されていくこと。つくることばかり考えていたけど、その先のマネジメント的なことを一切やっていなかったので、徹底的にそういうことで悩まされていくことになりました。

きむら

悩まされながらも、仕事相手の方とビジネス的な話はしなかったんですか。

中村さん

本当は、もっとお金をくれ!って言えば良かったですよね(笑)。でもそこまで言えなかったんです。もう、苦しくて。それに時間を取られるぐらいだったら、新しいものをつくりたいと思いました。そのとき全てのね、闇が溜まったんですよわたしの中に。

きむら

闇が溜まった...うーん、その後がとても気になります。

中村さん

そこからは、大学院の卒業の時に卒業式に出ない代わりに、3日間ロンドンに売り込み行きました。当時、100号まで漫画で描いていた「週刊あやこ」というわたしの週刊誌なんですけど。英語も全く話せないのに、アポイントも取らず飛び込みで売り込みして日本語で説明しました。一応、紙芝居のようなものを用意して、気に入ったらメールか電話してくださいということは伝わるようにして。帰国して3週間くらいした時に、国際電話がかかってきたんですよ。お前良いね!みたいな電話で、展覧会をやるから新作があるかどうかを聞かれたんです。無いって言えないから、あると答えて(笑)。

ロンドンからの国際電話で3秒で生まれた「ウサリーマン」

くどう

それは、以前からあたためていたアイデアですか?

中村さん

それが...その電話の時に3秒くらいで思いついたんです。ものすごい勢いで、アドレナリンが出ているのを感じました。

きむら
よしだ
くどう

面白い!それはすごい!

中村さん

はい。そこで生まれたのが「USALYMAN(ウサリーマン)」です。私を騙していた社会を、ものすごくディスる絵を描こうと思って。ギラギラ楽しそうで、すごい!みたいな。最初は、私の呪いが込められた発想でしたね。ただ、そこから絵をすぐに送らないといけなかったんですよ。

ロンドンの展覧会で展示された「USALYMAN(ウサリーマン)」作品のひとつ。ブラックジョークを交えつつ、明るくキラキラとした世界観で描かれている。

よしだ

そうか、すでに描いてあるはずだから。

中村さん

なんとか3日で描いてメールで送ると、良い反応が返ってきて、展覧会に参加することになり大きな作品を7点ほど描いて送りました。ロンドンのサーチ&サーチギャラリーの方はとても良い方で、お金が無いわたしに対してマージンも取らずに、全部のお金を振り込んでくれました。当時、これからの時代を担う若手をスカウトして展覧会を開催するというもので。事実、有名なギャラリーということもあり、わたしも発掘してもらったという感じです。

きむら

ギャラリーの方は良識ある大人で、美術に対して愛もあるという印象を受けます。

ロンドンのサーチ&サーチギャラリーで開催された企画展「4C:SIGHTSEEING TOUR」の様子。当時、若手の現代美術家を招いて開催された。

中村さん

その時は、全てに絶望していたので、そのロンドンの展覧会には行かなかったんですよ。心がボロボロだったので。展覧会が始まる頃に、わたしはザマーミロ!という気持ちで川越の河原でガリガリ君を食べていました。ここから動かずに、どれだけお金を得るかという実験をしていたので(笑)。全て自分で組み立てないといけないんだという意思がありましたね。じゃないと、誰か悪い人がきて騙すからみたいな感覚でしたね。後から思うと、せっかくのチャンスだったんだから、ロンドンのセレモニーは行けばよかったとも思いましたけどね。

きむら

怨念が込められつつも、環境は次第に変わっていった。

中村さん

日本でも、良い雑誌には一時期全て載りました。展覧会もサーチ&サーチギャラリーで開催できた影響は大きいものでした。ウサリーマンは、本当は大いなるブラックジョークとしてつくったもの。正しそうなピッカピカの世界に対して、ちょっと喧嘩を売りながらお金をもらう。でも、ブラックジョークとして受け取ってる人は、3人に1人ぐらいだと思います。

よしだ

最初の負のエネルギーだけでなく、お話を伺っていると平和のようなものも感じます。今の心境はどうですか?

中村さん

良ければ残るし、良く無かったら残らないんだなと思うと、勝手に時間が経てば判断が出るなと思ってほっといてます。昔は一喜一憂していましたが、今は売れても売れなくても「そうなんだー」って思うようになりましたね。そして、良い出会いもあり、ちゃんとしたビジネスの姿も教えてもらいました。だから今は信じることができます。

きむら

社会の仕組みやお金のことって、学校では教えてもらえなかったりしますよね。誰も教えてくれないことを、苦労しながらご自身の体験から形にしてきたんですね。

くどう

今回は、中村さんの幼少期の生い立ちからお話を伺ってきて、その人生観から生まれた作品の裏側についても知ることができました。中村さんの、その後の活動や今取り組まれていることについても気になります。みなさん後編も、どうぞお楽しみに!

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